「演技に基礎はない」ときっぱり言い切ってみた。
いや、まぁ、本当にそう思うからなんだけれども。
発声があるじゃないか、肉体があるじゃないか、他にも云々。
まぁ、色々とある。
滑舌とかね。
だから、「ないよ。」って断言しちゃうとちょっとずれちまう。
・・・はずだ。
はずだけど、ないもんは、ないのだ。
それはまぁきっと歴史的になくなっていったと言っていい。
言い方を変えれば「○○演技法」の基礎しかない。
こりゃ、音楽の世界でも同じだけれどもね。
「○○歌唱法」の基礎はあっても、歌唱法の基礎はない。
それは、スタイルってものの歴史の中でなくなっちゃったものだ。
アングラが出来た頃、新劇の連中が、基礎が出来てない!って攻撃した。
んで、第三世代の小劇場が出た頃に、アングラの連中が肉体論を持ってない!って攻撃した。
現代口語演劇が出てくると、第三世代の連中は「発声がなってない!」とか言ってる。
そもそもの新劇も生まれた頃は歌舞伎だとかの世界から軽薄だなんて言われていたわけだ。
それは全部当たり前で、そもそもの基礎が違うってだけだ。
いや、そうじゃないか。
新しい物が生まれる時に、最初に基礎をぶっ壊しちゃうってのが普通だからだ。
平田オリザが最初に大声を出さないって決めたようにさ。
だってそうなんだもん。って事だ。
そうやって細分化されて、様々なジャンルだスタイルだって時代に。
もう基礎もクソもないのだ。
何を持って基礎とするんだ?って話だ。
もちろん、個人的バックボーンは大事なのだけどさ。
実はおいらはもう演劇論を持つ劇団ってことごとく駄目だって思ってる。
演出家や団体が演劇論を持つ時代なんかとっくに終わっちゃってる。
社会に相対化されちゃって、観るも無残な気持ちの悪いイデオロギーになっちゃった。
じゃぁ、演技論だの基礎だのがなくていいのか?ってなるとそれは別。
必要なのは役者個人になったって事だ。
今は、役者が個人個人演技論を持ち、自分なりの基礎を持つ時代だって事だ。
プロデュース公演全盛のチラシを観ればわかるよ。
演出家の演技論なんてとっくにぶっとんじゃってる。
でもねぇ。
オペラの歌手なんかがさ。
大学なんかでも声楽を習うようなすげぇー人々。
極めちゃってるような人ほど。
ブルースみたいな歌唱法をあっさりと認めるんだな。
自分の学んできた声楽を否定するような発声法ですよ。
でも、許容出来ちゃう。
それは、否定ではなく並列にどちらもいいものだと認める場所まで言ってるんだろうさ。
アメリカのブロードウェイなんかは、ミュージカルの発声法にゴスペルだのブルースだのすぐに取り入れちゃってさ。
実際、それが受け入れられちゃうわけだもん。
そりゃ、認めていこうよ。って人が優秀な人ほど生まれてくるんだな。
ところが中途半端な連中はもう攻撃したがるんだよ。
自分が今やってること、そこを通過していないだけでキーキーとヒステリックに。
基礎が出来てない!!とかって。
どれだけ辛い思いでそこを通過してるのか知らないけどさ。
それは実はものすごい自分の範囲を狭く狭くしていることなんだっておいらは思う。
なんで、お前と同じ基礎をやらなくちゃいけねぇのさ?
お前はおいらのやってることやってねぇのになー。って思うぜ。
おいらはね。
基礎がある。
ステージに上がるという意味においては。
師匠や先輩たちから教わった基礎を持ってる。
それを壊すのは非常に恐いことだけど、いつでも壊せると思ってやってる。
大事にしながらも、いつでも捨てる覚悟も持ってる。
基礎なんてそんなもんだ。
発声も肉体の使い方も、叩き込んだから中々抜けないかもしれないけどさ。
それでも、いつでも捨てる覚悟はしているのだ。
だから、出自の違う役者も、いいと思えばいい。それだけだ。
判断なんて、良いか悪いかだけだのだ。
バンドはそういう意味では面白い。
ボーカルの基礎、ギターの、ベースの、ドラムの基礎。
ぶっちゃけ、違う。同じモノもあるけどね。
ソウル的な部分とかですら、ずれている場合もある。
でも、それでええのだと思う。
だからこそのセッションなのだモノ。
出自が違うから面白いんだもんな。
全然、基礎の違うものをさ、一つのリズムで、コードで、セッションする。
そこに何かが生まれるんだって思うな。
・・・いや、まぁね。
未だに、基礎がなってない!とか平然と発言するバカ演劇人がいるのよw
ロクに極めてないくせにね。